賃貸物件の入居審査が終わり、契約条件もおおむね決まっているものの、まだ賃貸借契約書には署名捺印していない。
このような段階で、オーナー側から「やはり今回は契約しません」と断ることはできるのでしょうか。
結論から申し上げると、「契約書に署名捺印していないから、いつでも自由にキャンセルできる」と考えるのは危険です。
契約成立後であれば債務不履行の問題になる可能性がありますし、まだ契約成立に至っていない場合でも、交渉がかなり進んだ段階で一方的に契約を取りやめれば、「契約締結上の過失」として損害賠償責任を負う可能性があります。
今回は、賃貸借契約書への署名捺印前にオーナー側から契約を取りやめる場合のリスクと、トラブルを防ぐための実務上の対策について解説します。
本記事は、当社YouTubeチャンネルで公開している
「契約書に署名捺印前なら貸主はキャンセル可能?」
という動画の内容を、文字で整理したものです。
「契約書に署名していない=契約未成立」とは限らない
まず知っておきたいのが、賃貸借契約は、原則として当事者の合意によって成立する「諾成契約」であるという点です。
例えば、
「この条件で貸します」
「その条件で借ります」
という合意が成立していれば、その時点ですでに賃貸借契約が成立していると評価される可能性があります。
重要なのは、契約書へ署名捺印していないという事実だけで、必ず契約が成立していないとは言い切れないということです。
契約成立後に引き渡さなければ債務不履行の問題になる
すでに賃貸借契約が成立していると評価される状態で、オーナーが一方的に物件の引き渡しを拒んだ場合は、債務不履行の問題になる可能性があります。
オーナーには、契約内容に従って借主へ物件を使用させる義務があります。
その義務を正当な理由なく履行しなければ、それによって借主に生じた損害について賠償を求められる可能性があります。
契約が成立していなくても「契約締結上の過失」が問題になる
もう一つ注意したいのが、「契約締結上の過失」です。
これは、最終的には契約成立に至っていなかったとしても、契約交渉が相当程度進み、相手方に「この契約は成立する」と合理的に期待させた後で、一方的に交渉を打ち切った場合などに問題となる考え方です。
例えば、入居審査後にオーナー側から、
「審査は通過しましたのであなたと契約します」
「契約締結日や契約開始日を決めましょう」
と伝え、契約手続きを進めていたとします。
申込者からすれば、当然「この物件へ入居できる」と考える可能性が高くなります。
そのような段階になってから、特段の事情もなく、契約を拒んだことにより、相手方に何等かの損害が発生した場合は、その損害について責任を問われる可能性があります。
申込者は審査通過後に現在の住居を解約しているかもしれない
特に問題になりやすいのが、現在住んでいる賃貸物件の解約です。
新しい物件への入居が決まったと思った申込者は、現在のオーナーへ解約通知を出している可能性があります。
その後、新しい物件のオーナーから契約を拒まれ、現在の住まいのオーナーへ解約の撤回をお願いしたとしても、すでに次の入居者募集が始まっているなどの理由で、撤回を認めてもらえないことがあります。
そうなると、新居に引っ越しが出来ず、現在の物件からも退去しなければならない状況になります。
どのような損害が発生する可能性があるのか
契約直前でオーナー側から話を取りやめると、申込者にはさまざまな費用が発生する可能性があります。
例えば、
・当初はなかった礼金などの追加負担が発生
・代替物件の賃料が高くなった場合の差額
・ホテルなどの一時的な宿泊費
・トランクルームなどへの荷物保管費
・引っ越しの日程変更やキャンセル費用
・家具・家電の再配送や返送にかかる費用
などです。
なお、これらのすべてが必ず損害賠償として認められるわけではありません。
例えば、引っ越し費用のように、もともと新居へ移転するために必要だった費用なのか、契約が取りやめになったことで追加的に発生した費用なのかによっても判断が変わります。
しかし、契約交渉を一方的に打ち切ったことによって余分な費用が発生したのであれば、その部分について損害賠償を求められる可能性があります。
定期借家契約ではさらに注意が必要
定期借家契約の場合には、別の問題もあります。
一般的な賃貸借契約は当事者の合意によって成立し得ますが、定期借家契約としての効力を持たせるためには、法律上要求される方式を満たす必要があります。
そのため、仮に賃貸借そのものについての合意は成立している一方で、定期借家契約として必要な手続きが完了していないという状態になると、要件不備により普通借家契約が成立してしまっている、という可能性も発生します。
「まだ定期借家の賃貸借契約書に署名捺印していないから、契約そのものが成立していない」と考えるのは危険です。
実際にオーナーが契約を拒んだ事例
私自身も、これに近い事例を経験したことがあります。
定期借家契約を締結する予定で、オーナーからも承諾を得た上で、すでに借主側からは初期費用も受領し、契約書への署名捺印をいただいていました。
しかし、オーナーはその契約書への署名捺印を拒否しました。
理由は、オーナーのご親族に今後介護が必要になったため、その方のために今回賃貸する予定だった部屋を使用したいというものでした。
そこで私は、「この事情をきちんと借主さんへ説明して、契約を取りやめることについて相談してみましょう」と提案し、話し合いの場を設けました。
話し合いの場でなされたオーナーからの主張
借主はオーナーのご親族も知っていた経緯があり、「ご高齢な方だから、もし今回のお部屋が必要になるという話だったら、自分たちも協力しないとね」と話してくれていたそうです。
ところが、話し合いの場では、オーナーが「そもそも契約は成立していません」と強い態度で主張してしまいました。
これによって、借主は激高し、大きく揉めてしまいました。
最終的には定期借家契約を締結することになりましたが、オーナーと借主、当時私の在籍していた会社の関係性は劣悪なものとなり、管理からも離れることとなりました。
しかし、その後も契約期間の間は、オーナーと借主との賃貸借関係は続きます。契約開始前から人間関係が大きく悪化してしまえば、その後の運営にも影響します。
やむを得ず契約できなくなった場合は誠実に協議する
どれだけ慎重に進めても、契約直前になって予想外の事情が発生することはあります。
その場合に最も避けたいのは、「まだ署名していないので契約は成立していません」と最初から一方的に主張することです。
先述した経験からも、やむを得ない事情があるときほど、一方的に法的な主張をするのではなく、相手方へ事情を丁寧に説明し、合意による解決を目指すことが非常に重要だと感じています。
場合によっては、一定の費用を負担することで、弁護士介入や訴訟などの大きな紛争になる前に合意できることもあります。
まとめ|署名捺印前でも自由にキャンセルできるとは限らない
賃貸借契約書へまだ署名・捺印していないからといって、オーナーがいつでも自由に契約を取りやめられるとは限りません。
重要なのは、契約書への署名の有無だけではなく、
・オーナーと借主の間でどこまで合意が成立しているのか
・入居審査後にどのような説明をしているのか
・契約条件がどこまで確定しているのか
・申込者が契約成立を信頼してどのような準備を進めているのか
という点です。
すでに契約が成立していれば、オーナーが物件を引き渡さないことによる債務不履行が問題になる可能性があります。
まだ契約成立前であっても、契約交渉が相当程度進んだ状態から正当な理由なく一方的に取りやめれば、契約締結上の過失として損害賠償を求められる可能性があります。
契約直前にどうしても進められない事情が発生した場合には、「署名していないから大丈夫」と考えるのではなく、相手方の状況を確認し、事情を丁寧に説明したうえで、誠実に話し合うことをおすすめします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


